『人を賢くする道具 』「第1章 人間中心のテクノロジー」のレジュメ
どんなことが書かれていたか?
本章では、テクノロジーが人間を賢くする可能性と愚かにする可能性を持つことが指摘される。
著者は、人間には人間の可能性を広げる「アーティファクト(≒テクノロジー)」を作り出す力があると考える。アーティファクトとは人間が作り出すもの全般を指し、人間の認知を助ける幅広い種類のモノのことを「認知のアーティファクト」と呼ぶ。認知のアーティファクトの幅は広く、物理的なものであろうと、心的(メンタル)的なものであろうと、認知を助けるものは認知のアーティファクトである。たとえば、物理的なものとしては、紙や鉛筆、電卓やコンピュータといったものが挙げられる。心的なものとして、読み書きのスキル、算術、論理、言語などが挙げられる。どちらも人間によって発明されなければ存在することはないもので、著者は、人間の知の大部分はアーティファクトを作る能力から来ると考えている。
しかし、皮肉なことに、自分で作り出したテクノロジーの世界に人間は支配され、コントロールされていると述べる。その証拠に、未だに機械中心の考え方でテクノロジーが捉えられていることを指摘する。機械中心の考え方とは、テクノロジーに対して、人間は多くの避けられない欠点を持つと捉える考え方である。たとえば、注意散漫である、文法通りにしゃべることができない、感情を重視し非論理的であるといった特徴があると捉える。
機械中心で人間を捉えた見方では欠点に思えた特徴も、人間中心の見方に立てば理にかなったものであると著者は指摘する。たとえば、人間は注意散漫であるという欠点は、仕事の種類やペースを変えれば気が散らなくなるかもしれないし、それどころかその人なりのペースに合わせて仕事をするようになればプラスになるかもしれない。文法通りしゃべることができないのは、単に言語を記述するために学者が作った規則で話をするわけではないとも捉えられる。感情を優先し非論理的であるという特徴は、あくまで人間が作った数学的処理に合わないだけとも言える。
つまり、機械中心の考え方で人間の欠点と考えられていたものは、あくまで機械に当てはまったことを人間に応用できるとは限らないことを言っているだけで、人間中心の考え方では人間の欠点や避けられない特徴は長所になり得ると指摘する。
そして、今日では、そうした機械中心の考え方ではなく、人間中心の考え方を採用するべきだと主張する。言い換えると、テクノロジーは人の身体ではなく、人の心に合わせなければいけないと主張する。このことを著者は、反テクノロジーではなく人間擁護であると述べる。テクノロジーに反対するのではなく、人間の能力を補い、不得意な活動を助け、得意な活動を拡大発展させることこそ、テクノロジーの人間的な使い方であると主張する。
もちろん、テクノロジーには副産物、副作用があることも認めている。偶発的で意図的ではないものの、テクノロジーによって生まれた副産物が混沌を生み出しかねないと述べている。その最も顕著な例がエンターテインメントのテクノロジーによる影響である。これはあらゆるメディア、教育、生活にはびこっている。特に、人間の複雑な認知モードの中から、対照的な「体験的認知」と「内省的認知」の2つを取り出して、エンターテインメントのテクノロジーが内省的認知による「思考」ではなく体験的認知である「体験」を受け入れるように結びついていることを指摘する。これら2つの認知モードは完全に独立したものではなく、同時に発揮することが可能にもかかわらず、テクノロジーの使い方の多くが、どちらか一方のモードを発揮するように作用していることを指摘する。さらに、多くの状況において、状況とモードが結びつかないため、テクノロジーとその使い方がうまくいっていないと指摘する。
感想や思ったこと
「反テクノロジーではなく、人間擁護」というメッセージはちょうどいい。テクノロジーを一方的に褒めたり、けなしたりするわけではない。同様に、人間を神格化しすぎないし、貶めすぎない。原文だとどうなんだろうか。「擁護」を辞書で調べると、defense、protection、supportあたりが出てくる。人間中心(human centric)という言葉でも表現されていることも絡めて考えると、(メインとサポートという感じで考えられるので)サポートあたりがニュアンスは近い気がする。
テクノロジーの負の影響は、偶発的で意図的なものではないものから生じていると述べられている。だから、仕方がないではなく、ではどうするかを考えたい。最近の生成AIの発展なんかを見ると、確実に予期せぬ負の影響が生じるはずである。そこで、反射的に「だからAIはダメだ」となるのではなく、「それならこういう形でAIを使いましょう」という風に考えるようにしたい。